吾唯知足

占術愛好家のノート、チラ裏。よそ様にお見せするほどのもんじゃないかも。。

 毎度の与太話。真面目に読むとバカを見ますよ。。

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「併用」という観点から易を見直してみると、違う景色が見えてくる。ひとくちに断易と周易を併用すると言っても、周易には色々な立場がある。経文一辺倒の硬派な易もあるし、白蛾先生や紀藤先生のように八卦を中心に見ていくものもある。真勢流には白蛾易に生卦の考えを加えたシンプルなものと、爻卦と爻位を交えて読むものと、或いは生卦法をタロットの展開法のように運用するものとがある。これらのうち、どれが断易と併用するのに適するのか、模索していると、いろいろ気付くことがある。

 これは主観だけれども、基礎的な周易ほど合わせやすい。例えば、経文義理をそのまま引くような硬めの辞占とか、白蛾易に初歩的な生卦を合わせた象占は合わせやすい。しかし、捏ねたものはどういう訳か合わせにくい。恐らく、ナニナニ流秘伝みたいなものは悉く験を示さないだろう。

 易は若しかすると、義理易(辞占)、断易、古易(白蛾易+生卦、いわゆる象占)の三つを併用するのが基本かつ自然なのかもしれない。しかし、古今の易学者はこの三つを同時に解するということがあまりなく、欠けた部分を手持ちの技法の拡張で補わなければならなかった。それで白蛾は秘伝を捏ね、大岳は高島易と白蛾易と真勢易を折衷し、呑象翁はときに駄洒落を使わざるを得なかった。しかし、義理易、古易、断易のいずれもを心得ていたら、そんなことをする必要はなかったかもしれない。

 義理で説明がつかなければ象を、象で説明がつかなければ納甲を見ればよいのである。(むろん、いずれの観方をしても同じ方向性が示されている、ということもある。そうでなくとも、もっとも明瞭かつ端的に示されているものを取ればよい。験のほどは実際に試してみれば分かる。それから、どの観方に注目すべきかは占事の性質からだいたい分かる。白黒をつけるようなことなら断易、射覆や探し物のように主に情報を求める占なら象、政治的なことや人の道を問うような占なら経文義理に注目するのがよいと思う。ただし、例外もある)

 裏返せば、義理易、古易、断易を併用することで、むりやりこじつけられた無駄な観法をそぎ落とすことができる。併用の要領が分かってくると、辞占や象占がシンプルに返っていく。断易も卜筮正宗に沿って自然なかたちに返っていく。納甲が不明瞭であれば辞を、辞が不明瞭であれば象を、象が不明瞭であれば納甲を見てみる。そうするとそこには実に素直な形で答えが示されているのだ。検証に困らないのである。

 ところが、断易一辺倒、古易一辺倒、辞占一辺倒だと、こういうとき対応できず、不自然な読みをでっち上げて説明しなければならなくなる。それぞれの占法には、こうして無駄についた贅肉が少なからずある。これが箱のなかの腐ったみかん(笑)になり、実占の足を大いに引っ張るのである。そういう構造がおぼろげながら見えてきた。

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 経文の易、八卦の易、納甲の易(に加えて卦の立て方)のいずれも解する人には、併用を強くお勧めする。

 断易。用神不現のとき、伏神を見るまえに、かならず化爻を確認しなければならない。化爻から用神が取れるときはこれを取る。しかし、この扱いがいまだによく分からない。卜筮正宗にも実例がなかなか見当たらず、ネット上の占例を漁っても断片的な情報しか入ってこない。

 一般には、化爻が動爻に影響することはあっても、動爻が化爻に影響することはない。また、化爻が影響を与えるのはもとの動爻のみである。他の爻とは交渉を持たない。とすれば、化爻が用神となる場合、日辰と月建との関係だけ見ればよい、ということになるが、そういう単純な扱いで良いのだろうか。元の動爻から何らかの干渉を受けるのではないか、という気がしないでもない。或いは、この場合に限っては、卦のすべての動爻と生剋関係を持ちうるのではないか。そうでなければ、化爻から用神が取れるときは他の動爻が丸ごと意味を持たなくなってしまう。こういう運用や解釈はちょっと考えにくい。

 少なくとも、化爻から用神が取れるときは、もとの爻と関連付けて読んだほうがいいのは間違いなさそうだ。変がキーワードになる。例えば、財運を占っていて、六爻に妻財がなく、兄弟が妻財に変ずれば、例えば同僚や兄弟、ギャンブルを介してカネが入ってくるとか、或いは出費の予定がなくなって却ってカネが入ってくるとか、そういう風に読める。

 このとき、妻財が旺相して瑕疵がなければ話は簡単だが、例えば空亡だったらどうか。日破や月破だったらどうか。単純に応期の手がかりとすればよいのかもしれないが、では卦に忌神が三合を結んでいたらどう読むのか。避とするのか成らずとするのか。或いは、妻財が休囚だったらどうするのか。

 ぶっちゃけると、、化爻から用神が取れるときでも、伏神を見たほうがよく解釈できる場合もあるようだ。化爻から用神が取れるケースは、提抜のバリエーションとして扱える可能性もない訳ではないと思う。この考えを取るとすれば、化爻に現れた用神は情報を取るのに使うだけ、ということになる。

 いずれにしても、この辺は漠然とやっていたらいざというとき仕損じるだろう。ここにも断易ならではの美しい法則性があるのだと思うが、なんとか早くそれを把握したいものだ。

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 はい、ワタクシ未だに単純な吉凶判断すらできません。(´;ω;`)ブワッ
基礎固めはいつになったら終わるのやら\(^o^)/

 占いには命・卜・相の三種があると言われている。自分はこのうち命と卜をやっているけれども、相には縁遠くしている。バランスを考えればやったほうがいいのは間違いないとは思っていたが、なかなか興味が湧かなかった。不肖ワタクシ、悲しいことに人間があまり好きではなく、従って人間の顔もあまり好きではない。相手が素敵な女性なら話は別だが、好きでないものをまじまじと見なければならないのが苦痛で、やる気になれなかった。

 好きこそ物の上手なれ、という言葉があるけれども、占いも面白みを感じて取り組んでいるときが一番上達すると思う。転じて、興味の湧かない占術はどう足掻いたって上手くならない。人相学をやったって上手くなりっこないのが目に見えていたので、たまにネットで関連情報を読む程度で、ほとんど手出しはしてこなかった。

 しかしいよいよ、歯を食いしばってでもやらなければならない気がしている。気が。

 というのも、競馬のパドックを見るのも、株式のチャートを見るのも、相といえば相だろう、ということに気付いたからだ。もっと言えば、周易象占やタロットなども相と言えないこともない。偶然性に基づいて現れたシンボルの特徴を見て、偶然性(運命)の傾向を読み取ろうとする訳だから。この考え方は命占にも当てはまるかもしれない。してみると、あらゆる占いはどこかしら相的な要素を含む、と言えるのではないか。

 興味深いのが、水野南北が南北相法の冒頭で述べている、観相の心構えである。ちょっと長いが書き写してみる。


 まず人を相するときは安座してその体の天地人を正しく備えて七息また心を気海に居して六根を遠ざけ而してのちこころ六根をゆるして以て相を弁ず。
 その体の天地人を正しく備えると云うは如何。
 答えて云うにその体の天地人を正しく備えるとは頭を正しくしてうつむけず又目を閉じ腹をはりて向こうへ出し尻を畳に落ち着け大石を据えたるごとくにすることを云う。又七息と云うは息を七へん数えるを云う。又こころを気海に居してと云うはこころを臍の下(丹田)に納めるを云う。又六根を遠ざけるとは相を見る間は鳥の啼く声も聞かず風の音も聞かず何にも思わぬことを云うなり。如是して相を見る時は自然と天より善悪の相を知らしめたまう者なり。是を心より六根をゆるすと云う。考うべし。


 要するに(雑な要約で申し訳ない、なにしろ浅学なもので)、姿勢を正し呼吸を整え、心を落ち着けて集中して(無心になって)見れば、自ずと相のよしあしが分かると言っている。続いて、


 まず人を相する時は第一行往座臥の間において其のこころを相して後神気の強きよわきを相し次に忠孝のこころざしあるか無きかを相し次に陰徳の志しを相し次に意動不動を相し次に始末のなるならざることを相し又視聴言動の間に相して後骨格血色流年によってことごとく善悪を相すること専一にして可也。


 第一印象を見、雰囲気を見、道徳観を見、言動を見、そのあとに人相を見るべきだと言っている。つまり、相術は第一印象や雰囲気などから読み取れることの裏を取るような感じで用いるのが本来なんだろう。また大抵の観相学のテキストにはまず目を見ろと書いてあるが、これも似たような主旨だと思う。

 これらを見て、自分は、八卦を読むコツとほとんど一緒だなと思った。第一印象や雰囲気などを見るというのは筮前の審事に当たると思う。また卦は理屈だけで読んではならず、かならず心で読まねばならず、それには腰をすえて心を落ち着けないとどうしようもない。雑音が耳に入ってくるようなときはろくな占考にならない。相のことは知らんけど南北の話はいちいち尤もだと思った。

 こういうことを仰る人たちが生涯取り組んだ観相というものに、ちょっとだけ興味が湧いてきた。まあ、なかなか上達はしないと思うが、自分のペースでゆっくり勉強していこうと考えている。

 自分のタロットの扱いは正統の人から見ればかなり適当なものだと思うので、初心者の方はあまり参考にしないで下さい。まえから言ってますが、このブログを読まれる方はくれぐれも自己責任で。

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 自分は以前はタロットをやるのに逆位置を取らなかったが、最近は注意して見るようになった。タロット・カードにはすべて二面性があるらしく、この辺の扱いを間違えるとどうしても誤占ということになる。分かりやすいところでは戦車。これは周知のとおり、快進撃と暴走の両方を意味する。むろんこれはタロットに限った話ではない。例えば、投資の是非を占ってルーンのフェイヒューを得たとする。一見してどう解釈すべきかは自明のことのように思えるが、そう話は単純ではない。フェイヒューは家畜を現し、また家畜が増えることを現す。ここから財産の義がある。普通なら投資に良いと判断したくなるところだ。しかし、投資の性質には重々注意しなければならない。フェイヒューは畜産であるから実業である。値ざやを狙う虚業ではない。従って、キャピタル・ゲインを狙うものとしての投資には合わない(この占的のもとでは「実のあることをやれ」の意となるから)。長期投資やファンダメンタルズに基づく投資になら合うだろう。むろんこういう微妙なところは正位置・逆位置を取るにしろ取らないにしろ判断はできるが、ボヤっとしていると必ず見落とす。注意喚起の意味で逆位置を利用したほうがいいのではないかと、そういう考えに変わってきた。

 さて、タロットのテキストをぱらぱらと読んでいると、逆位置の解釈にはいくつかのパターンがあるということが分かってくる。第一は、まったく逆に解するもの。第二は、程度を割り引いて考えるもの。第三は意味はほとんど変わらないが何らかの補足、但し書きを必要とするもの。他にもあるがだいたいこんなところだろう。自分の数少ない経験から言うと、「大枠はカードの通りだけど、ばか正直に解釈しちゃ駄目だぜ。自分で分かるだろ?」的に受け取ると、だいたい正しく解釈できるようだ。あるいは占的に突き合わせてみるとひっくりかえって出てきた意味が明確になることもある。例えば、ある種の強い不安があって占い、悪魔や死神の逆位置が出たなら、心配の必要はないという意味に解することができる。高い成果を狙って金貨のエースの逆を得たら、ある部分(例えば自分で設定した課題の面)では満足のいく結果になるけれども、それがそのままトータルの結果には繋がらないという風になる。

 なんにしても、このカードは逆位置が出たらこう、という風にあらかじめ決めて読むのはナンセンスじゃないか。占的や状況によっていかようにも変わってくると解するべきだろう。少なくとも、善悪吉凶がひっくりかえるという考え方を杓子定規に当てはめてもなかなか機能しない。逆位置は「ただし」つき、注意喚起のマークつき、と解するのがよいと思う。

 占いとは関係のない話ですが!

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 大相撲が土俵の外で揺れている。横綱の日馬富士が酒席で平幕の貴ノ岩を殴打したとされる問題で、いろいろな人がいろいろな発言をしている。個人的には、貴乃花親方の、巡業部長としての責任・立場と、力士の面倒を見る親方としての責任・立場を曖昧にして、大相撲の傷口を大きくしたという風な言い方で、これを批判する論調には怒りを感じる。巡業部長としての責任はそれとして取らせればよい。しかし、親方としては弟子が暴行傷害事件の被害者となったからには断固警察に被害届を出さなければならないに決まっている。そのことが、相撲協会への報告を先にしたことで(懐柔、和解圧力などの)何らかの影響を受けることが予想されるなら、そっちを後回しにする立派な理由になりはしないか。またいったん警察が動いたなら、裁判などを視野にいろいろ自由にモノが言えなくなるのは当然である。警察もそのように指導するだろう。普通の記者なら百も承知の筈である。そういうことを無視して貴乃花親方を批判し、日馬富士と貴ノ岩の、双方が傷つかないような対処をすべきだったというスポーツ評論家連中の見識は、これを深く疑わざるを得ない。こういう連中のこういう感覚が、過去の不祥事の一切の元凶ではないのか。この際、払拭すべきである。貴乃花親方を全面的に支持したい。

 いずれにしても、警察は暴行罪での立件を視野に入れているという。こうなった以上、日馬富士は横綱にふさわしい品格を持っているとは到底言えなくなり、引退勧告という結果になるだろう。こんなことは占いはしない(これだけ強い意見を持ってしまったらどっちにしろ卦が立つまい)。もし引退勧告を出さなければ横綱の、あるいは大相撲の威信に大きな傷が残るまでである。相撲協会は好きなほうを選べばよい。

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 ただ、、心に残るのは、朝青龍の引退会見だかにおける、品格品格と言うけれども土俵にあがれば鬼になるつもりでやっている、というあの発言だ。あれは朝青龍の偽らざる心境、相撲取りの等身大の姿であろう。日馬富士もきっとそうだと思う。そうして横綱という大看板を命がけで守る訳だ。そこには重圧を超えてある種の恐怖感さえあったのではないか。なのに、その地位の重みを知っている筈の力士が、それもぺーぺーの同郷の後輩が、あなたたちの時代は終わったなどと大口を叩いているのを耳にすれば、憤怒するのは当然だろう。そこを、鬼を上回る修羅の自制心で堪えるのが横綱だと言うならそれはそうだろうが、、日馬富士の心中を考えるとやりきれないものがある。横綱とて人間であるし、戦場における人の在り方は、戦場の外におけるそれとは、また違うとも思う。その境目が少々あやふやになったとして、それがどうした、という思いがなくもない。また、こういう力士に絵心があるというのだからため息が出る。

 しかし、暴行に目を瞑るべき、これを許すべきとまでは言えないし、言うべきでもないだろう。このやりきれなさを、ファンの一人ひとりが奥歯でしっかりかみ締めてこその、大相撲ではないか。それにしても、文脈をグチャグチャにして貴乃花親方を叩く評論家連中には、ジジイにもなって甘いこと抜かしてんじゃねえ、と言ってやりたい。

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